なにはともあれお賽銭を

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 3月も中旬ということでどろんこの庭もほとんど雪が消えた。
日が当らない北側の一部には、踏めば入る柔らかくなった塊があるくらい。
日中は雑草がはやくも顔を出している。

先日諏訪大社・上社の近くで仕事をする機会があったから、ついでにお参りをしてきた。
あの正月のような賑わいはなく、お店の数より歩く人の方が少なくてどこかの商店街みたい。それでも呼び込みの声だけはするからなるべく目を合わせないようにしていた。
いつもの一般参拝者の向うではなにやら幕が張られ改修工事中で奥の神殿がよく見えない。
大きな看板には「ご迷惑をおかけしますが・・・」とか書いてるがさい銭だけは受け付けるようになっている。ここまで来て入れない人はいないでしょ。
でもせっかくここまで上がって来たんだから手を合わせ願いだけは多めにしておこう。気は心、何もしないで帰るよりはいい。
それにしてもここは殺風景で無愛想すぎない。
雅楽を流すなりホウキで掃いてる人形を置いたり、スタッフ?が外で動く姿が全然ない。そういう所ではあるんだけど、関西の神社みたいな活気が感じられない。
鳥居をくぐってここまで数分、このあと周回して色々時間をつぶすというコースがないから、さい銭入れたら早く帰りなさいと聞こえるような。
全国の諏訪神社の総本山というわりには手短にお参りさせ過ぎでは。
バスで来た方は「これだけ?」と皆感じるはず。御柱祭の歴史や展示館などを諏訪大社らしく造り、参拝者を客として飽きさせない空間を工夫してみたらどうか。
そのほうが神社も儲かるし、いけね禁句かな。

なにはともあれお賽銭を” への2件のフィードバック

  1. 関西の有名社寺のような賑わいがみられないのは、明治初年の神仏分離政策により、堂塔も寺宝もともに壊滅的損壊・離散を遂げたからです。これには理由があります。
    幕末の諏訪高島藩主であった諏訪(忠誠)氏は松平定信の孫に当たり、老中まで務めた方でした。幕府の重臣だったことから明治新政府に目をつけられていたのです。このため、他地方ならある程度の線で抑えられていた廃仏事業が、限度をこえて徹底的に行われたと考えられます。
    また、諏訪社トップの大祝(天皇と同じ現人神)も、諏訪氏が歴代相次いでいましたが、やはり明治初年に世襲を禁止され廃絶しています。お血筋の正嫡は10年前にお亡くなりです。
    こんな事がありますので、いつの時代も「維新」を標榜する輩は怪しからんに違いないと思っております。
    なお、破却以前の宝物の一部(本尊だった五智如来など)が、上社本宮前の諏訪市博物館にあり、神長官守矢資料館には酉の祭りの解説資料、さらにもうすこしで佐倉の国立歴史民俗博物館へ奪われそうになった貴重な文書類があります。

  2. やっぱ学校の先生でしたか、授業のような熱いコメントありがとうございます。
    諏訪地方にも石仏が石垣に混じってたりするくらいだからさぞかし逆転劇があった事でしょう。
    御柱祭も戦後少しずつ変化、マスコミや交通機関が時間を調整したり、安全第一でお利口になったり。
    そういう流れからすると今は変えても怒られない時代かも。

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